変わりゆく「教員」の言葉の重み

私が学生時代の頃までには「戦前生まれ」の先生方が本当に沢山いらっしゃいました。つまり戦前・戦中・戦後の混乱の時代を実際に「目の当たり」にしてきた人間が教員になれば自ずと「教員の言葉の重み」が違ってきます。今の教職員とはまったく教育に対する「着眼点」や「苦悩のベクトル」も違いますが、それらの中に私は失われつつある「教育の真髄」があるのではないかと私は感じています。

以前もコラムで書きましたが、私は高校1年次までは一般の教室に通い集団生活をしていましたが、2年・3年次は、両親と学校側と協議をして「個別教室」を特別に開設して頂き、その時間の殆どが老齢(ベテラン)教員による「マンツーマン教育」だったのです。戦後生まれの先生は誰一人、そのチームの中には含まれていませんでした。その中でも、その教室の責任者をして下さっていた先生は今でもお元気で、お手紙のやり取りをさせて頂いております。私が常に「恩師」と表現する先生です。

恩師は旧帝大の文学部で哲学を徹底的に学び、加えて数年に渡りドイツへ留学しました。恩師の時代に留学は本当に大変な事だったと思います。恩師の哲学書は皇室からの直接注文が入るほどの優作で、私は徹底的に高校時代「人」と「国」の在り方につて、哲学的・倫理的・かつ帝王学的な側面から様々な事を直接教えて頂きました。

 

私は今回の手紙では私は恩師にいくつか質問を送りました。その中には「何故、日本には民主主義が定着しなかったのか」「不登校やいじめが1980年代から急激に増えた理由は如何かと思うか」「ドイツでは続けられている戦争犯罪に関する裁判、日本では法により戦争犯罪人はいないと制定されている現実にどのような意見を持つか」など、私が「今のうちに聞いておきたかった」事を10項目に渡り手紙に書き綴りました。

 

手紙を書いていて、私が同時に思ったのは「今の学校の先生で、これらの質問に的確に即答出来る教員がどれくらいいるか」という危機感です。言うまでもなく恩師は7ページに渡り、びっしりと的確に答えを遺言書の如く書き綴って下さいました。聞けなくなる前に、しっかりと聞いておく。そしてその記録を後世に伝えていく。これが、私が出来る国への社会貢献一つ、そして子供達への大きな「遺品」であると考えています。

 

未だに先生は私が生徒時代に呼ばれていた「殿下」というニックネームで私を呼んで可愛がって下さいます。先生は「皇族の様なオーラを感じるし、一般の家庭を知らない世間知らずの側面もあるから」と理由で私を殿下と呼び始め、それが定着してしまいました。それが今でも封筒に書いて下さるのを拝見するに、先生がまだお元気でいらっしゃる事は私の活動の活力の一つであるという事を意味しており、心から感謝の気持ちに堪えないのであります。