真に優しい大人とは、意味のある教育の上に成立する

これは一般的な話ではございますが「人物」から、その方が、どの様に育てられたかを予想する事は難しい事ではありません。そう言うまでもなく、人が大人になった姿とは、保護者(教育者)にとっては「子育ての成績表」そのものなのです。

そして世の中には「ただ優しい人」と「意味があって優しい人」の2つに分かれます。この2種類の「優しい人」詳細の説明は省かせて頂くにせよ、やはり「意味があって優しい人」に育て上げる事が、教育のある意味における「目標地点」とも考えられます。

 

例えば、我が家の教育の一例を挙げてみたいと思います。夏の高温多湿の中、大雨が降っているという状況下に親子が家を出ようとしています。今風の母親なら「早く雨止まないかな」とか「マジ、雨最悪だねぇ」などなど、自己都合の感想を述べて「(自分達にとって都合の悪い)悪天候」に対する不満を口にします。

 

しかし我が家には、そういった日常はありません。例えば私なら子供に「雨に濡れてお体を濡らさぬ様に、しっかりと傘をお持ちになって。こうやって雨が沢山降る事によって、大地が潤い、豊作に繋がり有難いですね。きっと農業に携わる皆さんもお喜びでいらっしゃる。雨に感謝しなければいけませんね。それとご自分の傘だけでなく、お母様が多く雨に濡れない様に、時折、見て、気配りなさってね。」と丁寧な敬語を交えて子供に声をかけます。

 

これは普段、私が周囲に伝えているほんの「一例文」にしかすぎませんが、小さい時から「自己中心的な世界」ではなく「自然」「国」「社会」「他者」があってこその「自分」であるという認識を、しっかりと身に着ける事により「意味のある優しい人間」に育っていきます。つまり「無私」「公正」「誠実」な人格を作り上げていく事が大切なのです。

 

それに「汚い言葉使い」は大人になってからいくらでも身に付きますが「美しい日本語」は、大人になってから、どんなに学んだとして「ネイティブ」にはなれません。上品さを装っても「演技しているな」という事が直ぐに分かってしまいます。故に教育者は「日々使う日本語」にも大きな気配りが必要なのです。