講話が終わると

全国各地の学校での講話を終えると、子供達も質問タイムに質問をして下さりますが、私からしますと、一番質問をしたそうにしているのは「教員」の皆さんです。なんとか「星川先生と話を一言でもしたい」という希望があるのは知っていますが、原則として私と直接会話が出来るのは校長や教頭、あるいは学年主任などの責任者のみです。

しかしながら「学校から最寄り駅」までの送迎は、若手の教員が行うケースもございまして。帰路の車内で、とある教員から「星川先生、質問をしても宜しいでしょうか」と恐る恐る質問をなさった。私は「そですね、1問あたり10万円頂きます」とギャクを申し上げて、場の雰囲気を和ませてから質問をして頂きました。

 

彼の質問は「どうやったら、原稿やテキストも無いのに、あんなにスラスラと授業が出来るのですか。それも生徒達300人ほどいたのに、誰一人として寝ていなかったんですよ。その魔法の様な話法を教えて頂きたいです。恥ずかしながら教員として試行錯誤の毎日なのです。」という趣旨でした。

 

私は「教員としてどうあるべきかと考えている内は、子供達の心に響く言葉は生まれないでしょう。教員としてどうあるべきか以前に、人としてどうあるべきかを深く学ばなければいつまでも名詞上の先生のままです。教員にとって大切な科目は帝王学です。その帝王学のフィルターの向こうに共に歩むべき子供達が存在しているのです。」と答えました。

 

勿論、彼は私の言葉の意味(趣旨)が分からないままだったと思います。私も大学時代、教員免許取得の為に、免許取得のための一連の流れを実体験していますが、あの流れのまま「教員」が世の中に排出されてしまう事は、ある意味の国家の「脅威」となりえるでしょう。国は国家繁栄に貢献出来る「教員」を求めています。そして子供達は「英雄」を求めています。それに応じるのが教員の職責であると考えます。

 

無私・公正・誠実